ぼくを憐れむうた

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日々の雑記や音楽のお話

ここは ぐちの はかば


syamuに見るコンテンツの一生

 syamuという大物youtuberがいる。

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またの名を「貝塚勃起土竜」「劣ってみた」「まぬけ」…etc

様々な異名をとるこの男は、2010年から実況動画などを作成し2014年頃まで活動していたyoutuberであるが、彼の一見不可解な奇妙な言動が取り上げられ一躍有名になった人物である。

 

ところで、オワコンという言葉がある。

これは「終わったコンテンツ」の略である。

これも一時期流行した言葉であるが、確かにコンテンツというのは生き長らえることはあれど、それが永遠に続くことはない。栄枯盛衰は世の常であり、栄えたものはいずれ衰退する運命なのだ。

 

syamuが人気になったきっかけは、ニコニコへの転載がその始まりと言われており、別のyoutuber「たれぞう」がコンテンツとして衰退し始めた為に新しいおもちゃとして発見されたという形であろう。

ここで大切なのはsyamuはどういった形で有名になったか、ということである。

当時は確実に「youtuberのヤベェ奴」としてピックアップされており、その奇っ怪な言動や、自己中心的であり自意識過剰な思考が面白がられていた、というのが大きな理由であり、更にざっくりと言えば、彼の幼稚な考え方と言動を馬鹿にして遊んでいたのである。

つまり、ここは非常に強調したい部分であるが、syamuが面白いのではなく、syamuを取り上げてsyamuで遊んでいたから面白かったのだ。言ってしまえば、syamuの動画を一人で見た所で面白いことなどなにもないのだ。

これは他の配信者にも言えることだが、ニコニコ等に置いては動画そのものの面白さに加えて、それを何倍にも増幅させるコメントという機能があり、それらのおかげで面白くなっていた動画やコンテンツというのは山のように存在する。

しかし後からそれを知った人間というのは、コメントでの面白さも含めて本人の面白さだと勘違いしている場合が非常に多い。

 

ここでsyamuの話題に戻すと、最近の人々はsyamu自体が面白いと勘違いしているのだ。syamuを幼稚な人間として取り上げて、その幼稚な言動を嘲笑って楽しんでいた側からすると今の環境は奇妙で仕方がないのである。

 

少し話が変わるが、コミュニティの一生というものがある。これは元2chの管理人のひろゆき氏の発言であるが、

初期:面白い人が面白いことを書く

中期:面白くない人が面白いものを見に来る

終末期:面白くない人が面白くないものを書き始める

 というものがある。これは雑談系のコミュニティを風刺的に捉えたものだが、ここから派生したもの含め、コンテンツの一生になぞらえることもできると考えられる。

昨今出回っているコピペはこちらだ。

面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする

面白くないので皆居なくなる

このコピペは秀逸で、ネット環境にに限らずとも、ありとあらゆるコミュニティやコンテンツに関して当てはまるように思える。

そしてこれをsyamuブームに当てはめるならば、ここでの”面白い人”というのはsyamu本人ではなくsyamuを取り上げて動画作成やスレを立てた人々のことであると捉えるのは些細な点ではあるが重要な点でもある。

先に述べた「オワコン」という言葉があるが、これを上のコピペに当てはめるならば、「残った凡人が面白くないことをする」という部分に該当するだろう。

 

そして正に今のsyamuを取り巻く環境は、syamuブームが成熟しきった頃にsyamuを知った後発組ばかりが騒ぎ立てているだけにすぎないのである。

そもそもの問題点として、syamu本人が活動を再開した、というのを喜んでいる時点で本来の楽しみ方とズレている。というのは、syamuは無自覚であれだけ傍若無人な振る舞いをしていたからこそ面白かったのであって、味をしめた彼が当時の自分の真似事をしても所詮贋作だ。それをどうして蛇足と言わずにいられようか。

「syamuのことを好き」と自称している輩はsyamuが、上述した「コメント等の他の作用があってこその面白さ」であったことを理解しておらず、syamu=面白いものという完全に思考停止した考え方しかできていない。何故面白かったのか、ということを考えれば、今の状態が不自然であり尚且、蛇足の域を逸しない結果しか残せないという答えを出すのは容易ではないだろうか。

 

とは言え、日本人は流行に流されやすい生き物だ。隣の人間が右を向いていたら右を向いてしまう生き物である。更に近年は使い古されたコンテンツを更に使い回し、身内感を持つことでしか物事を楽しむことができないように見える。ひいては、自分の言葉を失い、誰かの言葉を引用することでしか面白いことが言えない人々が増えているように思える。

彼らは自分が何に興味があるか、というよりも、他人が何に興味があるか、もしくは何を面白いと思うのかという他者の考えに倣うことしか考えられず、その結果、自分の思考を放棄して他人に依存してしまっている。

そんな彼らに何を言ったって無駄だ。

ただただ数年前のネタが延々と劣化してタイムラインを流れていくだろう。

自分が飽き性というのを踏まえても、新しいものを開拓せずに、飽きもせず先人のネタを延々と使い続けるスタンスというのには辟易する。

ネットには誰でも使いやすいテンプレート化したコンテンツが蔓延し過ぎてしまったのかもしれない。確かに考えてみれば、黎明期に比べてコンテンツは飽和状態であろう。

そう思えばこういった現状に陥るのも無理もないのかもしれない。

 

曲がりなりにも好きであったコンテンツであった。そんなものがが死んでいくのは何度目であろうか。終わらせるところを無理に延命処置をして見るに堪えない姿にさせられたのは何度目であろうか。

何事にも当てはまるが、衰えすらをも楽しむことがコンテンツの楽しみ方であると思う。例えばアニメの2クール目を期待するのも、展望があればこそだ。好きだから延々と続いて欲しいと思うのは本人のエゴであり、コンテンツ本来の在り方を無視している。

昔からではあるが、それを理解しない人々は順当に行けば綺麗に終わっていたはずであろうものを弄くり回して滅茶苦茶にして楽しんでいる。そこに一体何があるのだろうか。

やはりコミュニティやコンテンツの一生というのはいつだって無粋な者に荒らされて終わりゆくのだ。逆を言えば、綺麗な終わり方ができたらそれは至極幸せなことなのだと痛感させられる。

syamuの騒動を見ていると、改めてそんなことを考えさせられるのだ。