Twitterで誕生日を祝うな!!
これは声を大にして言いたいことである。
とは言え、これだけだとぼくがサイコパスに思われるかもしれないので詳しく話すと、
相手を直接祝うことができる状況下にあるのにも関わらず、SNSで祝うのを辞めろ
ということを言いたいのだ。
…は?何?怒ってんの?祝われないから僻んでんの?と思う人が大多数だろう。まぁとりあえず聞いてくれよ。あと俺が祝われないのは関係ないだろうが!!
大学でサークルに所属していた頃、サークル用にTwitterの垢を持っていた。TLは同じサークルの人々の他愛もないツイートが主なわけだが、ある日だけはTLが大盛りあがりする。その”ある日”とは「誰かの誕生日」だ。
「○○さん、誕生日おめでとうございます!」
「Happy Birthday!!」
「おめでとうございます!!!また飲もみましょうねー!!」
「(*´Д`p【нарру вiятнDау】q´Д`*))」
じゃっっっか嗚呼しいんじゃボケ!!!!!!!!!!!!!!!1
なぁにがまた飲みましょうじゃ!!!!!今日飲めや!!!!!明日以降は誕生日でもなんでもないただの日だぞ!!!!!!死ね!!!!!!!!
他の奴らもそうだ。祝う気が本気であるなら家に行けよ!それが無理ならせめて個人LINEしてやれよ!その上っ面だけの薄っぺらいおめでとうが死ぬほど癪に障るんじゃボケェ!!!!!
これがネット上だけでの付き合いの人々であればなんら不思議ない光景なのだが、これはリアルだけでの付き合いの人々のTLなのだ。ならば祝福する方法などいくらでも考えられる。
そのいくらでも考えられる数多の手段の中で最も手軽で負担が少ないのが、何を隠そうSNS上での祝福だ。つまり「ものすごく薄っぺらくて、ありえないほど軽い」祝福であると言える。
直接LINE送るほど仲良くないし、かと言って何も言わないと気まずいし…みたいな豚のクソにも劣る思考回路の持ち主はまだSNSで祝う意味がわかる。確かに誰かに嫌われるのが怖くて自主的な思考ができないゴミクズは、他人と異なる行動や当たり前の行動ができずに長いものに巻かれる糞みたいなムーブしかできないからな。
だァが、直接LINEを送ることに特に問題がない間柄なのにも関わらずSNSで済ます豚野郎の思考回路は一切理解出来ない。
ぼくは今まで一回もリアルの知人の誕生日をSNS上で祝ったことはない。仲が良い人の誕生日を覚えていた際は必ず直接言うことにしていた。もしくは直接プレゼントを届けに行っていた。
これは結構手間がかかる。金もかかる。突然訪問すれば、もしかしたら他の誰かに祝われてるかもしれない。だがそんなことはどうでもいい。先客がいればクールに去ればいいだけだ。SNSなんぞに頼って「他人の誕生日を祝った私優しい」を周囲にアピールするくらいなら、本人にだけしっかり気持ちの伝わるやり方をやった方が何千倍も誕生ber(誕生日の人)の為になると思っている。
そのためかぼくもかなりいろいろな人に祝ってもらった。
ぼくが様々な人から祝福を受けられたのは勿論ぼくが他の人の誕生日を祝っていた、というお返しだけでなく、周りの人間がいい人だらけだったということが大きいと思う。
だが、ぼくが他人をSNSで祝っている一般人だったら、ここまでしてもらえなかっただろうというのも素直な感想だ。当然、見返りのためにやっていたわけじゃないが、誰かから直接祝われるというのはお返ししたくなるほど嬉しいことなのではないだろうか。少なくともぼくはそうだった。
確かにSNS上でおめでとうと5回フリックすれば祝ったことになるかもしれない。でもそれは本当にお祝いする気持ちがあるのだろうか?ただの形式上のお祝いに過ぎないのではないだろうか?形式上のお祝いくらいだったらする必要ないのではないだろうか?お前の気が利くアピールのためだけに誕生ber(誕生日の人)を利用するなよ。
リアルで交友があるのならば、せめて今度直接会ったときに何か一言、もしくは手土産を添えることの方が大切であるように思う。
ぼくからすると、SNSで祝っているような奴らはどうも言動が一致しないように思えて仕方がない。
つまり、「私は貴方を祝っているよ!」という気持ちと言葉と行動が見合っていないと感じてしまうのだ。
これは他のことにも言える。
例えば、バイト先で社員が異動になった際、「○○さんがいなくなって寂しい!」と囀っていたクソ女は色紙に2行ペンを走らせただけだ。ぼくは大して寂しくもなかったが、お世話にもなったので個人的に金を叩いてプレゼントをくれてやった。これはここで初めて吐露することだ。他のバイトや社員にアピールしていたわけじゃないし、見返りを期待しているわけでもない。ただ、そうすべきだと思ったからそうしたまでだ。
例えば、サークルで先輩が卒業する際、「○○さんがいなくなって寂しい!」と囀っていたクソ女は色紙に2行ペンを走らせただけだ。ぼくはそんなこと他人の前で一切言っていない。でも宅飲みの最中、先輩を外に呼び出して1対1でちゃんとお礼を伝えることが出来た。これもここで初めて書いた。先輩とぼくしか知らない話だ。
誰かがめでたいとき、誰かがどこかへ行ってしまうとき、きっと様々な感情があるはずだ。だが、それは周囲と共有するべき感情だろうか?
ぼくは違うと思う。
直接伝えるべき感情だと思う。それは言葉かもしれないし物かもしれない。けど、直接、その人だけに伝えるべきなんじゃないだろうか。それが誰かに何か感情を抱いたときに最も大切なことだと思う。
ここで腹立たしいのは、バイト先のクソ女は異動後はケロっとしているし、サークルで先輩の卒業を憂いていたクソ女は翌週にはケロっとしているのだ。
なんだったの?あの囀り?
よくそんな軽い気持ちで嘆くことができるな、と、呆れを通り越して感服してしまう。泣いてたぢゃん…なんだったのあれ…アイボン…?
それ関連で恐ろしいのはうちの家族だ。
ぼくが高校生の頃、親が突然モルモットを買ってきた。弟がねだったそうだ。
だが、少しして飼い犬がモルモットを殺してしまう事故が発生した。
親は泣き崩れていて、犬をまともに見ることもできないほどショックを受けていた。
なので、繰り上げで全く愛着が無かったがぼくが埋葬を担当する運びになった。
埋葬する際に花束を買いに行こうと弟に提案して、2人で近くのスーパーまで買いにいったのだが弟は涙1つ零さないどころかケロっとしていた。
ぼく「最後に餌やったの弟だったんだって?なら、まぁ最後に会えてよかったね」
弟「まあね」
まあね!?!?!??!?!!?
なんだその少年漫画のライバルキャラが吐きそうな台詞は…よくノータイムでそんな能天気な台詞を吐き出せたな…てか、なんでお前ちょっとキャップ斜めらせてんだ…
ぼくは少し慰めようとしたが、呆れを通り越して感服してしまった。大したもんだわ………ドン引きだけど…………
これも初めて書く話だが、
ぼくが大学を休学していた頃、つまり一昨年、飼い犬の容態が突然悪化した。
ぼくは病院に連れて行ったほうがいいんじゃないかと親に打診したが、親は犬を抱えてため息を吐くばかり。
「お金もかかるし連れてくの大変だし…ちょっとすれば良くなるかも…」
ハァ?こいつ…命がかかってんだぞ?連れてくなら俺も協力するし、そもそもてめぇが飼い始めた犬だろうが、最後まで責任持てや馬鹿野郎。命をなんだと思ってんだ。何年一緒にいたと思ってんだよテメェからとどめさすぞ。
と結構苛立ったのを覚えている。
結局獣医に預けにいったのだが、程なくして容態がよくなってきたとの電話を受けた。ぼくらは一安心して一度様子を見に行って帰宅。突然のことにようやく胸をなで下ろし一息ついたのも束の間、再び病院から電話がかかってきた。嫌な予感がした。
「容態が悪化しました。すぐに来てください」
ぼくらは慌てて再び家を飛び出した。
病院につくと、ひっくり返っている飼い犬に必死で心臓マッサージ?をする獣医。潰れるんじゃないかって勢いでマッサージをしていた。
「あの後突然倒れ込んでしまって…最期かもしれません」
獣医がそう呟きながらも諦めずにずっとマッサージをしている。
飼い犬である彼女とは長い付き合いだった。実家では3匹犬を飼っているが、彼女は2匹目。どうやって親が手に入れたのか知らないが、中学生の頃ケージごと貰いに行った記憶が未だにある。
実家には彼女含め3匹いたが、その中でも彼女は少し臆病だった。やんちゃな他2匹に比べておとなしかった。他の2匹を差し置いて彼女を可愛がると彼女が2匹にちょっかいを出されるので、ぼくは他の2匹に隠れて彼女におやつをあげたり一緒に遊んだりしていた。
ぼくが実家を出て、彼女と会う機会は激減した。だからたまに実家に寄る際は「もう最後かもな、でも達者でやれよ」と決まって話しかけていた。
でも、いざいなくなると考えると、そんな言葉しかかけられなかった自分が非常に腹立たしくなった。もっと愛情を注いでやればよかった、もっとおやつあげればよかった。もっともっと一緒にいてやればよかった。彼女は寂しくなかったか。うちに来て幸せだったか。ぼくのことは好きだったか。隠れてしか可愛がってあげられずにごめんね。もっと早く病院に連れてきてあげられればよかった。ごめんね。
一昨年の出来事だから、流石に大丈夫かと思ったが、思い出せばやっぱり悲しいものは悲しいな。
結局彼女はそのまま息を引き取った。
ぼくらは虚無感を抱きながら彼女をタオルで加工したダンボールに入れて、家へ連れ帰った。
親は泣いていた。病院についた段階から泣いていた。だがぼくは泣かなかった。その時、親が泣いているのを見て、正直ドン引きしたのだ。お前がもっと早く病院に連れて行く決断をしてればもしかしたらがあったんじゃないか?と。最初拒んでいたくせに何を今更泣いてんだ?と。呆れ返ってしまった。
それに加えて、もしここでぼくまで感傷に浸りはじめたら慰め合いで話が進まなくなる。こういう時は誰かがしっかりしてなきゃいけないんだ。
家について、彼女はぼくの部屋で一時的に安置することになった。翌日かに葬儀場へ連れて行こうとなった。
親と話し合いをして結論が出て、部屋に戻って、彼女の顔を見たらとてもじゃないが堪えきれなくなった。生き物が死ぬっていうのはこれほどまでに悲しいことなのかと思った。ばあちゃんの家の愛犬が逝った時はぼくが幼かったからあまり覚えていないのだが、実家の愛犬はここまで悲しいものなのか、と必死で声を殺して泣いたのを覚えている。
ブログに書くのも、誰かに話すこともできなかった。一年以上ぼくはこのことを誰にも言わなかった。彼女の喪失は本当に悲しかったんだ。時が流れたので、メインの記事ではないがここに彼女のことを記しておきたいと思う。どうか安らかに眠って欲しい。
はっきり言って、死を冒涜するのはぼくからすると信じられない。誕生日を、とか、卒業式を、とか、それどころの話じゃない。だが、弟はまだしも親は”彼女”の死を馬鹿にしてんじゃないかと感じた。泣けばいいってもんじゃない。あの時ああすれば、と後悔するのも償いにはならない。生き物はいずれ必ず死ぬ。遅かれ早かれ、だ。その時しなきゃいけないのは、”喪に服す”ことだと思う。
遠くの国の誰かの死を一々悼むことはできない。だが、親しい者の死は関係が深ければ深いほど悼み、慎まなければならない。というか、必然的に心情はそうなるはずだ。
親も心底悲しかったんだと思う。愛犬だったんだ。そりゃそうだ。だが、犬への心臓マッサージを見て、まるで演出かのようにハンカチを取り出す仕草はその前段階の行動と見合っていない。それをしていいのは必死で病院へ連れてきた後だろう。
そのせいでその後の涙も、葬式の涙も、全て薄っぺらく見えてしまう。
誕生日の話からかなり飛躍したが、ぼくが言いたいのは、
誰かに感情を抱いたときに周囲にアピールする必要はないこと。
直接伝えられるなら直接伝えるべきだということ。
あと、言動は一致させること。だ。
思っても居ないのに本気で悲しむ素振りをしたり、もしくは本気で喜ぶ素振りをしたり、その場限りの薄っぺらい感情をこれ見よがしにアピールするのは本当に滑稽だし、必ずボロが出る。自己陶酔するのは結構だが、周りから見て非常に不愉快であることは事実だ。
もし仮にぼくと親しい誰かが急逝したとして、周りにそんな奴がいたとしたら正気を保っていられる自信がない。素振りだけで一切なにも行動しないとか、泣くだけ泣いておいて翌日には誰かと楽しく遊んでるなんてことをされたら確実に縁を切ると思う。正気の沙汰とは思えない。
言葉と行動を一致させるのは中々難しいことだ。怠惰な人間という生き物は利己的だからだ。でも、1つ1つの節々で礼を尽くすのは非常に大切なことだと思うし、ぼくはこれだけは絶対に守るべき事だと信じて生きている。
普段どれだけ軽口を叩こうが、いざという時に態度で示すことは何より重要なことだ。幸いぼくの知り合いには大切なことがわかっている人間が多いように感じる…というか、そういう人以外とは仲良くなれないんだろう。普段はしょうもないことしか言わなくても、どうしようもなくても、根幹がしっかりしていればそれだけで信用できるんだ。
ぼくもどれだけ時が経とうと、不器用なりにこれだけはしっかり肝に銘じていたいと思う。