ギターが、歌うんだよ
カート・コバーンはギターのことを「死んだ木」と表現した。
わお詩的ィ!と喜ぶ人もいるかもしれないが、カートにとってギターはそこまで大切なものじゃなくツールであったということだろう。
しかし死んだ木、ことギターという道具も時折歌うらしい。
これは時折聞く表現だ。
卒業していった先輩の色紙に後輩が「○○さんのギターのまるで歌うようなソロが素敵した!」と書いていたらしい。その先輩が嬉しそうにぼくに報告してきた。死ぬほどどうでもいいな、と思いながら「へっへっ、そうなんですねぇ!」と返事をした気がする。へっへっは言ってなかったかもしれない。
で、時が流れて自分の代の卒業ライブにて、とあるバンドでギターソロを弾くシーンがあった。だが例によって原曲をコピーするとエライことになるのでお得意のペンタスケールでどうにかしていたのだが、本番で先輩の歌とその歌詞、更には卒業というシチュエーションのダブルパンチで感極まってギターどころではなくなってしまったのを覚えている。その時は、押さえられる弦を頑張って押さえて、スケールアウトしくりのやけくそソロを弾いていた。
更に時が流れてブルース道場に足を運ぶようになった頃、天狗の鼻をぶち折られたぼくはギターソロとは如何に弾くのかを、そこの住民に教えを請うた。
その時に1人のギタリストが
「まず歌詞を聞かなきゃいけないよね」
と教えてくれた。
曰く「その曲の意味が解釈できて初めて良いギターソロが弾けるんだ」とのこと。
はぇ〜…英語わかんないのぉ…困り果てるぼくにそのギタリストがさらに続けた。
「そうすると、ギターが、歌うんだよ」
あ、これ、聞いたことある。
いつだか先輩が嬉しそうに見せてきた色紙。
いつだかの卒業ライブでの二度と弾けないであろう自分のギターソロ。
あとは、ジャムセッションについてのサイトでも幾度となく見た文面。
全く意味がわからなかったけど、そういう事だったのか。
卒業ライブでの時はお世辞にもギターは歌ってはいなかったけど、あの時ほど歌詞を聞いてギターソロを弾いたことはなかった。
音楽は感情をアウトプットすることを目的としたツールだ。
であれば、あの時のあのソロはきっと間違ってはいなかったのかもしれない。
少し話は変わるが、舞台上で楽器を壊す連中の意味がわからなかった。ネット上でも、
「楽器を大切にしろ」
と、散々言われている。
でも、演奏をしているとどうにもこうにもいかなくなる瞬間がある。感情の昂りをどう表現したらいいのかわからなくなる瞬間がくる。
それをテクニックでねじ伏せられればいいのだが、そうもいかない時もある。そうした時に、彼らはギターを床に叩きつけたり、ギターを燃やしたりしていたのかもしれないなぁ。
つまり、音楽の在り方や表現方法は必ずしも上手に弾くことが全てでは無いということだ。
ノエル・ギャラガーは幾つもの曲で同じソロを弾いている、と言っていた。テクニックを感じられるソロじゃなくて、同じソロでも曲に合わせた感情で弾いているから違和感が感じられないのかもしれない。
大切なのは音数ではなくて、その曲にどれだけ感情を乗せられるか、なんだろう。
しかし面白いのは、これを鼻で笑う人もいるという事だ。
このことをある先輩に話した時、その人は
「9割方何言ってるかわからんわw」
と言っていた。
それはそれでいいと思う。
テクニックに重きを置いて、どれだけカッコよくクールに弾けるかに命を懸けている人々もいて、そういうプレイヤーから学ぶこともあるし、そういうプレイヤーもまたかっこいい。
ぼくは未だに中途半端だ。
歌うギターソロが弾けるわけでも、かっこいいギターソロが弾ける訳でもない。
曲に感情を込めたり乗せたりするのは本当に難しいことだ。
もうすぐ4月が終わる。
去年の4月よりぼくは楽器が上手くなっただろうか。
自分じゃさっぱりわからないが、いつかぼくもギターを歌わせられたらなぁ、なんて壊れかけのストラトを眺めながら、或いは先輩のことを思い出したりしながら、そんなことを思うのであった。