ぼくを憐れむうた

ぼくを憐れむうた

日々の雑記や音楽のお話

ここは ぐちの はかば


???「小僧、"声は祈り"で"歌は演劇"なのだ」

これは名前も覚えないOBに言われた言葉である。うろ覚えなので前半は言ってなかったかもしれない。

彼の言い分としては、つまるところ歌を歌うという行為は演じることなのだ、ということだった。

 

ぼくはサークルで止むを得ずボーカルをしていた時期がある。

本当は他の人に歌ってもらってぼくはリードギターでもしていたかったのだが、いかんせんぼくが好きなアーティストを好きな人がいなかったので仕方なしにぼくが歌っていた。

そんなぼくをOBが見た時の上記のセリフだったわけだが、当時は全く意味がわからず

「誰やこのおっさん早う往生しろや」

くらいのテンションであった。

 

しかし今になってみて、この言葉の意味するところがなんとなくわかってきた。

 

声は祈りってのは意味不明だが、やはり歌に演技は必要だし切り離せないものなのかもしれない。

というのは、例えばかっこいい曲を棒読みのように歌っていては伝わるものも伝わらないし、切ない曲もまた同じである。

であれば、かっこいい曲を歌う時は少し気取った歌い方を、切ない曲を歌う時は掠れそうな声で細々と歌う歌い方をすれば、より一層受け手も感情移入したり乗れたりそれぞれ気持ちよく聞ける。

時には後ろを向いてみたり、腕を回してギターを弾いてみたり、踊ってみたりといった体を使った演技も勿論アリだ。

とはいえ、やはり歌ものであれば、"歌"が重要だ。歌声や歌い方がものを言うものだ。

 

しかし、時々、歌ってのは演技を超えることがあるように思う。

演者、もといボーカルの気持ちが高ぶれば演技を超えた歌が響く。例えば、音程を外して叫んだり、泣き叫ぶように歌ったり、時には歌えなくなることもあるかもしれない。

 

ライブというのは如何にかっこよくできるかってのが見せ所であるが、その前にちゃんと弾くというのが大前提だ。当たり前だが、弾けなかったり歌えないってのはバンドとして、あるいは弾き語りとして失敗だ。

プロであればお金も発生してるし、綺麗な音で綺麗な歌声で演奏をするってのが客を満足させるための最低限の条件であると思う。

 

でもね、辛くて辛くて堪らない時、または感動する気持ちが昂った時、歌を歌えばきっとまともになんて歌えやしないだろう。

誰かのバンドが解散する時、自分のバンドが解散する時、誰かが居なくなった時。

きっとかっこつけてなんてられないはずだ。

 

そして、そんな時の不完全な音楽ってのは、なんともかっこいい。

シャウトができる、高音まで綺麗に出せる、ビブラートのかけ方が上手い、スキャットが上手い

歌が上手いと思わせるテクニックは色々あると思う。ギターだってそうだ。速弾き、タッピング、スウィープ(笑)etc…

だけど、どれだって演技を超えた時の歌や演奏には勝てない。

どれだけ綺麗に歌い上げた所で、一生懸命に、がむしゃらに、泣くのを我慢して歌を歌う奴には勝てないんだ。

 

自分はなんとなくヘタウマが好きな傾向にあるなぁとは分かっていが、ふと昔言われたことを思い出してその理由に少し納得した。

 

歌が演劇ってのはきっとそうだと思う。そして演技を上手く活用することが上手いって言われるってこともわかる。だからこそその向こう側にある、演技もない不細工な歌に魅力を感じてしまうんだろうな。

みなさんも是非カラオケが全てだと思わずに、たまには想いのままにお歌を歌ってみては如何でしょうか。

 

うーん……やっぱり声は祈りってのは意味が……

ん?待てよ?………

 

ということは…………ッッ!!

そうか!!くそっ!!そういうことかよ!!!

間に合ってくれッッ!!!!!!(唐突に部屋を飛び出す)(同時にカメラがぼくの机の上の暗号を解読していた紙にズームしつつフェードアウト)